学問の小部屋

ここは学問の黒板です。

seesaaはとんでもなく重いので、書き始めて数日なのにはてなダイアリーに乗り換えることにしました。

seesaaは確かに高機能ではあるようです。しかし、重すぎて更新できない状況ではどうしようもないので、もうはてなにします。
というわけで、今までの数日分をこちらにコピーしておきます

weblogを始めることにしました。 学問の小部屋では、個人的な日記をweblogとして公開することはしません。 それはおそらく、大きな目的である「世のため人のため、有益な情報を提供すること」に 寄与しないと思われるためです。故に、日記として使うのではなくあくまでも情報発信元として、 公開することが有益と思われる内容のみ記述することとします。

今日は楽団の反省会があったので、そのときに話した内容をメモしておきましょう。
我らが楽団では、定期演奏会の後に半年ごとに反省会を行っています。
今回は僕自身は曲乗り(本番で演奏メンバーに入ること)できなかったため、演奏についての反省はできません。
客席から見ていてひとつだけ思ったのは、みんなあまり指揮者を見ていないなということです。
指揮者は音楽をつくる上で最も大事な部位で、演奏者が指揮者の指示をよく見ることは当然であり、皆それはわかってはいてもアマチュアであるからか、つい自分の演奏だけに集中してしまうことが多々あります。
場でそう言った反応として、大部分のメンバーはそんなことはない、ただ客席から見てもそう見えるようには努めるべきというものがありました。
僕は二階席の後ろの方に座っていたので、もっと近くで見れば問題ないように見えたかもしれないという思いはあるけど、往々にしてそういう不備は起こるものなので、敢えてメモを記しておきます。

もうひとつのお話。
オーケストラの中で弦楽器は多人数で弾くものです。
単に音量がほしいだけなら、マイクでも立てて一人で弾けばよいのです。しかし、それはしない。では、どうして多人数で弾くのか?
弦楽器のユニゾンにおいて、もしも厳密にメンバー中で音程が合っていたとしたら、そのときは大音量の一本の弦が鳴っているように聞こえるはずです。しかし、人間の演奏ですから、それを実現することは不可能です。だから、音程に若干の幅が生まれる。それこそが、ストリングスらしい響きを生むのです。
もちろん音程は合わせるに越したことはなく、そこまで到達するためにも皆の音程を合わせましょう、ということになります。

最後に、四回生の皆さん、お疲れ様!!

菊池誠のwebwebにて、科学実験の再現性について簡単な話題を出しました。
実験の再現性は証明できるか?というものです。結果、それはやっぱり証明不能です。
おそらく科学者は再現性を信じて仕事をしていると言われても仕方のないものだと思います。
では、結局宗教と同じく、どこか認めざるを得ないものを科学は持っているのでしょうか?

科学は「反証可能性」によって成立する、という定義があります。
ある理論を論証できるということではなく、理論に反証の余地を残していることこそが科学の定義であると、カール・ポパーは示しました。
明確に宗教と違うところは、いつかそれが破られることがあったとすれば、そのときに素直に受け入れられる謙虚さを持っているということ。
科学的に正しいとは、現行の検証方法を採って無矛盾であることを意味します。
しかし現行の測定器の分解能の範囲では説明のつくことが分解能の向上により理論に一致しなかった場合は、既存理論を超える物理を受け入れられる立場に立てること。
そういった意味で、科学が科学たり得るものと思っています。

少し前に我が下宿で友人を二人ほど呼び味噌煮込みをしました。
食べに来ていたO2君(仮名)と話していると、「君が○○が就職に強いというのは、教授が言っていることを鵜呑みにしているに過ぎない」と言われました。僕はこの手の議論はもう飽きてしまったので、その場はあまり反論もしませんでした。今回は、こういった論理を題材にしてみます。

原点に立ち返ってみると、世の中に確実なものなど全くありません。例えば、僕は当サイトの「はじめに」にて大学生であると書いてあります。では、それは確実なことか?
僕が嘘を書いていない証拠はありません。しかし、大多数の人はそれを信じます。

人は何を信じて何を信じないのか?
物事が信用に足るのは、どういうときでしょうか。
人が物事を信頼する理由は
・嘘をついたとして、そこにメリットがない
・実績から言って信頼のおける人が話していた
・今までそれを信じて失敗したことがない

などでしょう。
つまりは、どんなことでも確実な証拠などは存在せず、「信じたいから信じる」のです。
では常に懐疑的な態度で臨むのはどうかといえば、それでは世の中は回っていかないことも明白です。信号機だろうが書物だろうが自分の奥さんだろうが、何も信用せずに生きていくことなど不可能です。
故に人間は多くのものを”鵜呑みにして”生きていくのであり、それを否定しても始まらないということです。世の中を生きていく上で最も大事なことは信頼であり、世の中の大部分を人間が信じているからこそ千円札は千円なのであり、社会が成り立つのです。
他者に誠実に接すれば信頼を得て人間関係を作ることができるでしょうし、その反対も然りです。
尤も物事に懐疑的になる態度も大事なことには違いないので、どういう場合に何が信用できるかは大人になったら自己責任でいきましょう。


まさかこの文を読んで物事を鵜呑みにすることを正当化しようとしていると解釈する人はいないと思うけど、もう一回

「それを否定して、何がしたいの?」