学問の小部屋

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科学の宗教性

科学と宗教とは相容れないものとして考えられがちなものである。しかし今回は、科学(ここでは自然科学)には宗教性があることを指摘する。(実は今回の議論はだいぶ前にやったことがあり、明文化していなかっただけである)
宗教の特徴とは、何か疑いの余地のないものを最初に規定して、そこから言葉を紡いでいくところにある。それは神の存在であったり、破ってはいけない戒律であったりする。神や戒律の存在を疑うものは邪教とされ、その宗教のコミュニティから排除される。
科学の場合はどうか。ひとまず自然科学は実験で確かめられることを前提としており、実験をまったく支持しない理論は科学的理論とはいえない。科学に必要な要件として、実証性、論証性、再現性、反証可能性などの要素がある。なお、打ち立てた理論を現実的に実証できない場合もある。ビッグバン理論を再現実験で証明せよといっても無理な話である。
それでは、これらの性質を疑ったときどうなるか。自然科学には再現性があることは誰か証明したかといえば、もちろんそんなことはない。そのような内容を含め、本当に厳密に証拠を揃えて成立している理論は存在するかということについて、100年ほど前にウィーン学派という集団が検証したことがある。結果として、厳密に「科学的」である理論は存在しなかった。しかし多くの自然科学は科学であるとされ、一般に受け入れられている。すなわち、科学とされるものには何らかの前提条件となる「宗教性」があり、それこそが再現性であったり、反証可能性であったりする。神を信じないと宗教が始まらないように、再現性を信じないと科学も始まらないのである。その意味で、科学にとって再現性などはある意味「神」である。
宗教においては「神」を信じないものは異端とされた。科学においては、再現性や反証可能性を満たさないものは異端とされて排除される。論理構造はなにも変わらず、自然科学はひとつの宗教であると言える。
しかし、だからといっていわゆる宗教と科学がまったく同一であるなどとは言わない。科学と宗教には大きく違う部分がある。それは、科学には未来を予言する力があるということである。宗教も予言を行うが、宗教の予言は外れる可能性が非常に高いため、そういうのは予言力があるとは言わない。科学の場合は、例えばものを手放せば地面にどれくらいの速度で落ちると、境界条件を知っていれば恐るべき精度で予言することができ、それが外れることはまずない。それこそが再現性である。
なお、再現性を支持しない立場を考えてもよい。例えばホーキング博士は自著の中でこのように述べている。

法則を証明することはできない。その法則が未来も成り立っている保証がないからだ。

しかし、どういうわけか過去現在において自然は再現性のある振る舞いをしており、それが破れる気配もないため、科学者は再現性を信じている。
過去を参照する意味では科学と宗教は同一であるが、未来を論じる上ではまったく異なる。
唯一、未来にも再現性があることを仮定するという条件付ではあるが、自然科学とは過去に学び、未来に活かすことのできる人類の知識の結晶なのである。