学問の小部屋

ここは学問の黒板です。

高品質な楽弓のスティック(棹)にはブラジル西部産のフェルナンブーコという素材が使われる。 安価なものにはブラジルウッド等の廉価な素材が使われることがあり、これは素材の弾性率がフェルナンブーコよりも明らかに劣るために安かろう悪かろうの弓でしかない。 バロックの時代にはフェルナンブーコの弓はまだ登場していなかったので、当時はスネークウッドという硬くて重い木材が使われた。 硬いと一口に言っても弾性率、引っ張り強度、モース硬度、ビッカース硬度など色々あり、スネークウッドはいわば雲母のような硬くてもろい素材である。 これでモダン弓を作ると所望の張力が得られないため、バロック弓のみに使われる。
フェルナンブーコを初めて使ったのは楽弓の始祖と呼ばれるフランソワ・トルテであり、トルテが改良した弓の構造は現在まで基本的に変わっていない、というのは周知の事実である。 弓も楽器本体と同じく経年変化による材質の硬化が進み、よい状態で保存された古いものがよいということは事実である。 しかし、基本的に弓は消耗品であり、使えば使うほどスティックのばね弾性が失われてしまう。(一般に弓のコシがなくなるといわれる) これはセルロース繊維の構造が崩れてしまうためで、一度弾力がなくなると基本的に元に戻らない。焼き戻しという手法があるが反りが戻っても崩れた内部構造が回復するわけではない。 トルテやペカット、ヴィヨーム、サルトリー、ラミー等過去の名職人の作品にはべらぼうな値段がついており(要はプレミア)確かに経年変化による音色の向上は見込めるとはいえ、 新作の弓ほど音量が得られないために事実上室内楽や狭いホール、録音専用となる。 当然どんどん弓は弱っていくから、トルテの作品などはいずれ使用不能になってしまうであろう。 弱い弓に張力をかけて無理やり毛を張ろうとするとスティックが曲がってしまい損傷する。

カーボンファイバーと弓

最近注目されているカーボンファイバー製の弓は、素材としてはフェルナンブーコを遙かに凌駕する可能性を秘めている。 カーボンファイバーは非常に弾力に富み、破損しにくく、基本的に経年劣化しない。 スポーツ用品や自動車用品が既にカーボンファイバー製に置き換わっていることから、その信頼性も十分である。
それではこれを弓の材料としたときのメリット、デメリットについて考えてみよう。 カーボンファイバーは文字通り炭素繊維のことである。弓を含めていわゆるカーボン製品はCFRP(Carbon Fiber Reinforced Plastics)、和訳すれば炭素繊維強化プラスチックである。 正直にプラスチック製の弓などと言うと間違いなく世間での評判が悪くなるため、「カーボン弓」という通称が変わることはないと思われる。
一般にカーボンにはドライカーボンウェットカーボンの二種類があるとされる。 これは元々はドライカーボンしかなかったものが安価に大量生産しやすいウェットカーボンが作られるようになって作られた言葉のようである。 ウェットカーボンはカーボン繊維とエポキシ樹脂を練ったものを自然乾燥、あるいはオーブンで乾燥させたものであり、 ドライカーボンはエポキシ樹脂と混合したプリプレグ材(材料)をオートクレーブ(高温高圧釜)で焼成したものである。 ドライとウェットの違いは製法の違いであり、カーボンファイバーをどの程度含んでいるかではない。 しかしドライカーボンを作るときはカーボンファイバーとエポキシの混合率がほぼ自動的に決まり、一般に高純度となる。 ウェットカーボンはエポキシ樹脂とカーボンファイバーの混合率は製品を見てもあまりわからない。(一部判別できるものもある) 一口に「カーボン製」でも成型時の混合率や製法により強度はまちまちということになる。その意味でもドライカーボンは高価かつ高信頼性である。 スポーツ用品などは基本的にドライカーボンで製作されているのに対し、2009年現在は楽弓でドライカーボン製を謳う製品はオーストリアのARCUSしかなく、その他はすべてウェットカーボンと思われる。 (もしドライカーボン製ならば必ず宣伝文句になる) チェロ用エンドピンも基本的にはウェットカーボンと考えられる。(有名な見附精機工業vcyoyoのカーボンエンドピンもウェットであることを見附氏に確認した) 市場にあるカーボン弓もほとんどはウェットであり、物によってはほとんどエポキシ樹脂で黒い色がついているだけのものもあるかもしれない。
事実、工房ミネハラの検証(図12)で示されているスティック係数α(スティックの弾性を示す) の比較によれば、ドライカーボン製の2種類は値が跳ね上がっている。他にもカーボン弓が比較されているが、その差は歴然である。
カーボンは軽くない

よく「軽くて強いカーボン製品」などという宣伝文句を見かけることがある。これは楽弓などを考えるときは正しくない。 カーボンファイバーの比重はACMの物性比較表によれば1.5〜1.7であり、 アルミ、チタン等の比強度の高い軽金属、グラスファイバーよりは比重は軽いがフェルナンブーコ材の比重は1.1である。 そのまま弓のスティックの材料とすると1.5倍ほどの重さになる。 一方、エポキシ樹脂の比重はジャパンエポキシレジンの特性表によれば1.1〜1.2程度であるから、 エポキシ樹脂を多く含むウェットカーボンほど軽く、フェルナンブーコに近づくということになる。 即ちカーボン製でフェルナンブーコと同等の重さの弓であるということは、 ほとんどエポキシ樹脂でできていることを示している。 一方ARCUS製品はドライカーボン製であることを謳い文句にしており、更に超軽量であることを謳っている。 これはカーボンファイバーが軽いのではなくARCUS製品は中空構造になっているからであり、中空パイプでも強度が得られるドライカーボンならではの設計である。 ARCUSは非常に軽く操作性がよいと言われるのはこの中空構造により重量と慣性モーメントが小さいからである。木製弓ではこのような芸当はできない。

カーボンスティックの品質

材質としてのカーボンファイバーは、ドライカーボンを工夫して使っているARCUS製品に関して言えばもはやフェルナンブーコの弓を凌駕していると言える。 ARCUSの主張によればスティックの共鳴品質がグレードによって違い、値段を分けているということである。 そもそもカーボンファイバーはフェルナンブーコよりも共振しにくい素材であり、ドライカーボン焼成は工業的には品質のムラなどは許されない。 真に技術力の高いメーカーならば安定して高品質なスティックを製造できるはずである。 しかし、最近IGAMI ストリングド インストルメンツの伊神氏に伺ったところ、そもそものカーボンファイバー材の分量を変えることで様々な重さの弓を製造しているそうである。 これはユーザーの好みがバラバラであることからそれに合わせるためで、カタログ値では一定重量のように見えるが実際の製品はそうではない。 (かつては設計値+-1g以内に収めるようにしていたそうであるが、現在はそのような管理がなされていない。)
また、スティックのグレードの分類は、ARCUS社に直接問い合わせたところ、従来の木弓と同じくヒアリング、フィーリングテストで行っているとのことである。 これはスティックの品質を科学的手法で分類しようとしたがうまくいかなかったからとのことである。 音色は主観に依存する部分が大きいために、未だ科学的観点から選別が行えないというのは非常に残念である。
また、カーボン弓の唯一の欠点として、ドライカーボンは強度が高く変形しにくいために特に先端側でのスティックのしなりがないことが挙げられる。 これは先端側の弾き心地に関係し、工房ミネハラの検証(図14)に示されている。 このような不具合を解決するにはスティック内の空洞の直径を先端側に行くほど広げる必要があり、技術的に難しい。

カーボン弓はよいか悪いか?

以上からカーボンファイバーはひとつの欠点を除いては理想的な材料である。 弓として優れるかどうかはその設計と職人の腕の問題であり、木製弓とは製法が全然違うために独特の問題が生じるという部分を差し引いても、木製弓よりも有利であると考えられる。 偏見に捉われず多くの奏者がカーボン弓を試せば、今後の弓の勢力図はカーボンにシフトしていくかもしれない。
トルテの弓なども、当時としては斬新な改良が行われ、パガニーニなどの当時の有名な奏者が演奏してその性能を実証し、広まっていったという経緯がある。 いわば当時のハイテク弓が従来の弓を駆逐したのである。保守的にならず、理屈を考えながら新しいものを試すということはいつの時代にも必要なことであろう。

駒(ブリッジ)

駒は大きく分けてフランス駒(フレンチ)、ドイツ駒(ジャーマン)、ベルギー駒(ベルジャン)に分かれる。背が低く足部分が広がっているのがフレンチ、背が高く足幅が狭いのがベルジャンである。 多くの場合ベルジャンの方が厚さが薄く、フレンチは厚い。ジャーマンはその中間である。ただし、大きい母材を削り出して作るために個体差も大きい。 古い楽器にはベルジャンが比較的多く使われるが現在は圧倒的にフレンチが使われているようである。 ベルジャンは背が高いためにそのまま使うと弦高が高くなり、楽器との相性がある。 ベルジャンとフレンチの違いはその形状と厚みでベルジャンの方が若干スリムで背が高い分"華奢な"印象を受けるが、これは微々たる差でしかない。 形状はともかく、駒の質量が変わると共振周波数が変わり、重いほど低音寄りの「重厚な太い音」に変化すると考えられるが、同時に振動系が重くなり楽器を鳴らしにくくなる。 元々「明るく華やかな音色」の楽器の場合はバランスの良い方向にシフトするかもしれないが、楽器は個体差が大きくどちらがよいとはとても言える状況にはない。
駒の素材はメイプル白木で木目の方向に決まりがあり、これがきれいに出ている製品は繊維の方向が揃っているため性能が良い。 デスピオ、オーベルト等の製品が有名で、オーベルトデラックスは高性能駒の定番である。 駒の場合は材料費よりも調整の工賃の方が高くなることも多いために、交換するときは工房に任せるのでなくオーベルトデラックスでと注文しておいた方が後で悩まなくて済む。 ただし、木材であるから同ランクでも品質のばらつきは大きく、型番だけで吟味するのは難しい。さらに駒については工作精度>材質である。 表板のカーブは楽器によって違うのでその形にぴったりと合うように駒が削られていないと効率的な振動伝送ができない。
ユニークな製品としてアンドレア・バンというメーカーが塗料に漬け込んだ駒、魂柱を発売している。 自社製の駒に塗料を内部にまで浸透させることで経年変化以上の硬度向上を狙ったものである。ただしベルジャンしかない。 振動伝達特性が向上しているというデータがあるらしいが資料が手元にない。おそらくは漬け込みにより物質中の音速が異なり、音響インピーダンスが変化しているものと思われる。 鹿島勇もこれに興味はあるが、実績があまりないことと材質以上にベルジャンであることが気になるため未だ試していない。